ホークスの歩み

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1930年~1950年


劉瀬章投手(64試合10勝22敗、防御率2.79)


ホークスの前身である「南海軍」が誕生。正式名称は大阪の南海電鉄が経営する「南海野球株式会社」。これで球団は9チームとなる。連盟はすぐ承認したが、しばらくは"実力のほどを見よう"ということで春季は番外試合、公式戦は秋季からということになった。
この年(日中戦争中)兵役で主力選手を軍隊にとられたチームが戦力減に泣く中、被害が少なかったタイガースが他チームをよせつけない2シーズン連続優勝を果たした。

新登場の南海チーム。前列向かって左から富永嘉郎(外)、小林悟楼(内)、西端利郎(内)、松野隆雄(捕)、納家米吉(投)、平井猪三郎(内)、劉瀬章(投)、栗生信夫(外)、後列向かって左から岡野(名前不詳)、高須一雄監督、中野正雄(内)、吉川義次(捕)、高野百介(投)、鈴木芳太郎(投)、上田良夫(内)、政野岩夫(投)、織田(名前不詳)、中村金次(内)

秋季リーグ成績


チーム





1 巨人 - 3 4 4 4 2 41 5 4 40 30 9 1 .769 -
2 タイガース 2 - 3 5 4 4 3 3 3 40 27 13 0 .675 3.5
3 阪急 1 2 - 2 2 3 21 41 5 40 21 17 2 .533 8.5
4 名古屋 1 0 3 - 21 4 31 21 4 40 19 18 3 .514 10.0
5 セネタース 1 1 3 21 - 1 3 3 5 40 19 20 1 .487 11.0
6 ライオン 3 1 2 1 4 - 11 3 4 40 19 20 1 .487 11.0
7 イーグルス 01 2 21 11 2 31 - 31 2 40 15 20 5 .429 13.0
8 南海 0 2 01 21 2 2 11 - 2 40 11 26 3 .297 18.0
9 金鯱 1 2 0 1 0 1 3 3 - 40 11 29 0 .275 19.5

昭和23年(1948年)


優勝ペナントを手にした山本一人監督


この年はシーズン前から大型合併などで球界が活況を呈してくる。 南海は社会人野球の実力派とよばれる中でも、大物の選手をそろえた。都市対抗大会連覇の岐阜大日本土木の中原宏投手、"門鉄の赤鬼"と呼ばれた木塚忠助内野手、全大阪の強打者・笠原和夫など。エース・別所は対大阪の開幕戦から自らホームランを打つ。 前記の中原のほか、前年シーズン途中に立命大-門鉄の中谷信夫投手も獲得、さらに元法大のエース柚木進が戦地から復員してきたところをつかまえて万全の投手陣。山本監督はその投手陣を得意なチーム別に巧みにあやつり、シーズン通算でいえば別所=26勝10敗、中谷=21勝12敗、柚木=19勝11敗、中原=13勝7敗と堂々たる布陣。打線でも、新人の笠原、東鉄からきた飯田の強打があり、木塚が軽快に走り守って河西はさらに66盗塁と記録を伸ばして"機動力野球"も健在、というところのない優勝だった。

優勝した南海。前列左から岩本、市河(未登録)、松本、朝井、河西、筒井、岡村、土屋、古谷、三村。
後列左から柚木、丸山、中原、松川、山本監督、別所、中谷、堀井、飯田、笠原、松本、木塚、安井。

(画像左)
チームを優勝に導きMVPにも輝いた山本一人監督兼内野手
(画像中央)
復員してすぐ南海に入り19勝をあげた柚木進投手
(画像右)
女優たちも球場を訪れてきた。左から大阪・若林監督兼投手、月丘夢路、南海・山本監督兼内野手

リーグ成績

順位 チーム













1 南海 - 12 15 9 11 16 12 12 140 87 49 4 .640 -
2 巨人 8 - 9 15 12 16 10 13 140 83 55 2 .601 5.0
3 大阪 5 11 - 13 7 11 10 13 140 70 66 4 .515 17.0
4 阪急 11 5 6 - 10 9 11 14 140 66 68 6 .493 20.0
5 急映 8 7 11 8 - 6 9 10 140 59 70 1 .457 24.5
6 大陽 3 4 9 9 12 - 11 13 140 61 74 5 .452 25.5
7 金星 8 9 9 8 9 9 - 8 140 60 73 7 .451 25.5
8 中日 6 7 7 6 9 7 10 - 140 52 83 5 .385 34.5

昭和24年(1949年)

昭和24年(1944年)、「日本もアメリカのように2大リーグでいくべきだ」という正力松太郎発言が引き金となり、プロ野球進出をもくろむ各企業、団体が"チャンスに遅れてはならない"と続々と日本野球連盟に加盟申込みを始めた。そんな中既存球団では「これ以上球団を増やせば経営が難しくなる」という新規加盟反対派、「門戸を開放して新規加盟を認めよう」という新規加盟賛成派の2つに意見が対立する。昭和24年11月26日に東京会館別館で開かれた「顧問・代表合同会議」でも賛成派と反対派4対4でお互い1歩も退かず、会議はまとまるはずもなく「日本野球連盟」としての最後の会議となった。 「連盟を解体し、以後は各球団の自由意志によって動くこととする」
そしてなんと、その日の午後1時には毎日新聞本社別館で「太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)」の連盟結成式が行われた。関係者はすでに水面下で準備を進めていたのだ。太平洋野球連盟を結成したのは阪急、南海、大映、東急の既存球団に新たに毎日、近鉄、西鉄が加わった7球団。「国際的視野に立つ職業野球」という意味で「太平洋」を名乗った。
それに対し"こちらが中心である"という自負をこめた「セントラル野球連盟」も20日後の12月15日に代表会議を開き、巨人、大阪、中日の3既存球団に新加入の大洋、広島、西日本、さらに年が明けた1月11日に国鉄が加わり計8球団。
結果的に、ここに 2リーグが誕生したのである。

協力:(株)ベースボールマガジン社