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6回裏1死、多村選手は左越えにプロ通算150号本塁打を放ち、ベンチ前で花束を受けファンの声援に応える |
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6回裏1死、多村選手は左越えにプロ通算150号本塁打を放つ |
節目の1発だけが、多村仁志選手の笑顔を引き出したのではない。チームの勝利と貢献できた充実感。千金150号には、そんな思いが重なっていた。「勝ちたいという気持ちが強かった。記録は気にしていない。目の前の試合だけ、1打席1打席だけ考えている」。6回裏、粘りに粘ったエース杉内俊哉投手を援護する今季6号。西武許投手の高めの直球を打った。手には、こすった感触が残り「打球が上がりすぎたかな」。だが、ポテンシャルを示すかのように、打球は左翼席まで到達した。
長距離砲への“転身”の転機は01年。横浜入団時は「守備を期待された」と言う。しかし、当時のチームのニーズは飛距離。現中日落合監督の指導を受けたのが9年前だった。「タイミングの取り方を教えてもらった」。その年は右肩を痛め、33試合出場。だが、ほとんどシーズンを棒に振りながら、忘れなかったのは、投手との間合いの取り方。リラックスした構えから、遠心力を生かすスイングの原型が固まった。
ただ、当時との違いは自然体に近づいていること。今、4番打者へのこだわりは「ない」と断言する。自らの役割を「つなぎ役」とも。この日の1打席目。強振せず、ミートに徹して左中間を破る適時二塁打。150本積み重なったアーチの中で、ホークス移籍初年度の07年開幕戦2発が最も思い出深いが、本塁打だけに執着することはない。
07年から続く単身生活は4年目。先の9連戦ラストゲームにあたった「こどもの日」5月5日(対オリックス=京セラ)のこと。試合後、急いで球場を後にする多村選手の姿があった。翌日はチーム練習オフ。博多に帰るチーム便とは逆方向、夫人や3人の子供が待つ横浜に向かうためだった。この日のお立ち台で締めくくりの言葉は「明日は母の日。お母さん、妻を連れて球場に来てください」。自らの家族への感謝の意味も込められていた。
過去15年間のプロ生活で経験していないものがある。シーズンVの美酒。それを味わったとき、多村選手はどんな笑顔を浮かべるだろうか。